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	<title>「温泉社長のちょっと一言」</title>
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	<description>湯の杜 志戸平社長 久保田浩基の様々な考察</description>
	<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 09:52:55 +0000</pubDate>
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		<title>志戸平温泉の歴史　その１４　「五代目大作　３～転機２」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 09:52:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 
 
昭和４年の秋、
　父、逸郎のいとこが水戸の高等学校に
勤めている縁から県立水戸中学校付属夜間中学に
３年生で二学期から入学できることとなった。
 
久し振りに出来る勉学に深い喜びを感じたようです。
冬休みに帰郷したときは
息子の元気な姿をみて、母キソは
涙を流して喜んでくれたのでした。
 
 
　翌年（昭和５年）には、私立茨城中学校の
４年生に編入学し、通常の学生生活に戻ったのでした。
そのころのエピソードを酒を飲むと
よく聞かされたものです。
 
たとえば、
「軍事教練放棄事件」～
攻撃隊の中隊長だったときに
「馬鹿馬鹿しいからやめよう！」と解散してしまい
教官大尉から呆れられた事件。
 
「通信簿訂正事件」～
テストで答案を見せてやった級友が　”甲”で
自分が　”丙”だったことに憤慨し
教師に直談判して　”甲”　に訂正させた事件。
などなど、、、、、。
 
「私は盛岡中学の友達と茨城中学の友達と２つ持っている。
すごく得した学生時代だったと思う。」
と言ったことがあります。
 
人生の逆境も考え方で
幸福にも見えるし、不幸にも見えるということです。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>昭和４年の秋、</p>
<p>　父、逸郎のいとこが水戸の高等学校に</p>
<p>勤めている縁から県立水戸中学校付属夜間中学に</p>
<p>３年生で二学期から入学できることとなった。</p>
<p> </p>
<p>久し振りに出来る勉学に深い喜びを感じたようです。</p>
<p>冬休みに帰郷したときは</p>
<p>息子の元気な姿をみて、母キソは</p>
<p>涙を流して喜んでくれたのでした。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>　翌年（昭和５年）には、私立茨城中学校の</p>
<p>４年生に編入学し、通常の学生生活に戻ったのでした。</p>
<p>そのころのエピソードを酒を飲むと</p>
<p>よく聞かされたものです。</p>
<p> </p>
<p>たとえば、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「軍事教練放棄事件」～</span></p>
<p>攻撃隊の中隊長だったときに</p>
<p>「馬鹿馬鹿しいからやめよう！」と解散してしまい</p>
<p>教官大尉から呆れられた事件。</p>
<p> </p>
<p><span style="color: #ff0000;">「通信簿訂正事件」～</span></p>
<p>テストで答案を見せてやった級友が　”甲”で</p>
<p>自分が　”丙”だったことに憤慨し</p>
<p>教師に直談判して　”甲”　に訂正させた事件。</p>
<p>などなど、、、、、。</p>
<p> </p>
<p>「私は盛岡中学の友達と茨城中学の友達と２つ持っている。</p>
<p>すごく得した学生時代だったと思う。」</p>
<p>と言ったことがあります。</p>
<p> </p>
<p>人生の逆境も考え方で</p>
<p>幸福にも見えるし、不幸にも見えるということです。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その１３　「五代目大作　２～転機」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=298</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=298#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 31 Aug 2010 03:09:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

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		<description><![CDATA[ 
 
　大正１５年、大作が中学２年のときに患った
「結核性肋膜炎」に、医者からは
「助からないかもしれない。」と言われました。
 
まさに、九死に一生　を得て
翌年（昭和２年）の５月に退院し
自宅療養（温泉療養）を２年ほど続けました。
 
　それ以来、彼の人生では
「一のも健康、二にも健康、三にも健康」が口癖で
私の少年時代にも
「勉強もスポーツも出来がよくなくてもいいから健康を第一にしなさい。」
といわれたものです。
（そのせいか、私は勉強もスポーツも中途半端な学生生活を送ってしまいました。）
 
この考えは終生変わらず、８７歳で
「急性心不全」で他界するまで
「健康第一」で生き抜いた人生でした。
 
 
 
　さて、昭和４年の春頃からは体調もよくなって来たため
盛岡中学への復校を願い出ます。
しかし、学校の規則として
一年生からの復学しか認められないということでした。
 
同級生はすでに５年生となり
弟の正四郎も同じ中学の３年生になっており
同級生や弟までにも　”脱帽の礼”　
をしなくてはならず、耐え難かったようです。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>　大正１５年、大作が中学２年のときに患った</p>
<p><span style="color: #993300;">「結核性肋膜炎」</span>に、医者からは</p>
<p>「助からないかもしれない。」と言われました。</p>
<p> </p>
<p>まさに、九死に一生　を得て</p>
<p>翌年（昭和２年）の５月に退院し</p>
<p>自宅療養（温泉療養）を２年ほど続けました。</p>
<p> </p>
<p>　それ以来、彼の人生では</p>
<p><span style="color: #000080;">「一のも健康、二にも健康、三にも健康」</span>が口癖で</p>
<p>私の少年時代にも</p>
<p>「勉強もスポーツも出来がよくなくてもいいから健康を第一にしなさい。」</p>
<p>といわれたものです。</p>
<p>（そのせいか、私は勉強もスポーツも中途半端な学生生活を送ってしまいました。）</p>
<p> </p>
<p>この考えは終生変わらず、８７歳で</p>
<p>「急性心不全」で他界するまで</p>
<p>「健康第一」で生き抜いた人生でした。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>　さて、昭和４年の春頃からは体調もよくなって来たため</p>
<p>盛岡中学への復校を願い出ます。</p>
<p>しかし、学校の規則として</p>
<p>一年生からの復学しか認められないということでした。</p>
<p> </p>
<p>同級生はすでに５年生となり</p>
<p>弟の正四郎も同じ中学の３年生になっており</p>
<p>同級生や弟までにも　”<strong>脱帽の礼</strong>”　</p>
<p>をしなくてはならず、耐え難かったようです。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その１２　「五代目大作　１」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=286</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=286#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 09:11:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

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		<description><![CDATA[ 
 
  
昭和8年3月12日、大作の二十歳の誕生日の日に
長男　豊　が亡くなり
五代目として大作が跡を継ぐこととなります。
 
 
  　

大正9年撮影　　右より豊(10歳）、大作（6歳）、キン（12歳）
　大八郎（0歳）、テイ（8歳）、大蔵（2歳）、正四郎（4歳）
 
 
 
 
 
 
 大作の少年期は、まさに「わんぱく小僧」
そのものだったようです。
 
”ジョッパリわらす（強情なわらし）”とも言われたようです。
小学1年のとき、かくれんぼをして
遊んでいたときのことです。
 
祖母キヨがお客様と話しをしている前を
横切ったことことで注意をされた。
学校では教練で失敗したら
前の通りに戻ってやり直すことが
決まりだったので、そのとうりにしたら
祖母は激怒し、土蔵倉に放り込まれてしまった。
 
祖母にすれば、注意したのに再びワザとやった
と思い込み怒った。
 
しかし、本人は悪いことをしたとは思っていない。
夜になって許されても
「キヨばあさんが来なければ、出ない！！」と
夜中まで強情を張り通したという。
 
　小学校の校長を定年退職した後
帳場の手伝いをしていた大作の叔父準一翁は
「逸郎よ、大作を良く育てよ。ぐれて育ったら
大悪党になるかもしれないが
養育の当を得れば、大物になるだろう。」
と語っていたということです。（大作の談）
 
　本人はその話を誰から聞いたのかわかりませんが
その言葉をその後の人生の糧として
あるいは、潜在意識の中に刷り込まれ
彼が苦難や逆境に遭ったときのエネルギー源
となったのかもしれません。
 
　小学校を卒業後、兄の豊と同じ盛岡中学校に
難関を突破して入学します。
わんぱく小僧としか思っていなかった
祖母キヨも、このときだけは大いに褒めて
喜んだということです。
 
　盛岡では、兄と同じ下宿屋で一緒の生活をしました。
しかし、中学2年生のとき（大正15年）の夏休み中に
遊びすぎて体調を壊してしまいます。
 
9月に入ってざらに悪化し
「結核性肋膜炎」と診断され
長期治療が必要となり一年間の
休学を余儀なくされます。
 
これが大作の人生の大きな転機と
なっていきます。
　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/07/e4b985e4bf9de794b0e5aeb6e58588e4bba3e58699e79c9f3.jpg"></a> </p>
<p> </p>
<p>  </p>
<p>昭和8年3月12日、大作の二十歳の誕生日の日に</p>
<p>長男　豊　が亡くなり</p>
<p>五代目として大作が跡を継ぐこととなります。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>  　</p>
<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/07/e4b985e4bf9de794b0e5aeb6e58588e4bba3e58699e79c9f4.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-295" title="e4b985e4bf9de794b0e5aeb6e58588e4bba3e58699e79c9f4" src="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/07/e4b985e4bf9de794b0e5aeb6e58588e4bba3e58699e79c9f4-300x216.jpg" alt="e4b985e4bf9de794b0e5aeb6e58588e4bba3e58699e79c9f4" width="300" height="216" /></a></p>
<p>大正9年撮影　　右より豊(10歳）、大作（6歳）、キン（12歳）</p>
<p>　大八郎（0歳）、テイ（8歳）、大蔵（2歳）、正四郎（4歳）</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> 大作の少年期は、まさに「<span style="color: #ff0000;">わんぱく小僧</span>」</p>
<p>そのものだったようです。</p>
<p> </p>
<p>”ジョッパリわらす（強情なわらし）”とも言われたようです。</p>
<p>小学1年のとき、かくれんぼをして</p>
<p>遊んでいたときのことです。</p>
<p> </p>
<p>祖母キヨがお客様と話しをしている前を</p>
<p>横切ったことことで注意をされた。</p>
<p>学校では教練で失敗したら</p>
<p>前の通りに戻ってやり直すことが</p>
<p>決まりだったので、そのとうりにしたら</p>
<p>祖母は激怒し、土蔵倉に放り込まれてしまった。</p>
<p> </p>
<p>祖母にすれば、注意したのに再びワザとやった</p>
<p>と思い込み怒った。</p>
<p> </p>
<p>しかし、本人は悪いことをしたとは思っていない。</p>
<p>夜になって許されても</p>
<p>「キヨばあさんが来なければ、出ない！！」と</p>
<p>夜中まで強情を張り通したという。</p>
<p> </p>
<p>　小学校の校長を定年退職した後</p>
<p>帳場の手伝いをしていた大作の叔父準一翁は</p>
<p>「逸郎よ、大作を良く育てよ。ぐれて育ったら</p>
<p>大悪党になるかもしれないが</p>
<p>養育の当を得れば、大物になるだろう。」</p>
<p>と語っていたということです。（大作の談）</p>
<p> </p>
<p>　本人はその話を誰から聞いたのかわかりませんが</p>
<p>その言葉をその後の人生の糧として</p>
<p>あるいは、潜在意識の中に刷り込まれ</p>
<p>彼が苦難や逆境に遭ったときのエネルギー源</p>
<p>となったのかもしれません。</p>
<p> </p>
<p>　小学校を卒業後、兄の豊と同じ盛岡中学校に</p>
<p>難関を突破して入学します。</p>
<p>わんぱく小僧としか思っていなかった</p>
<p>祖母キヨも、このときだけは大いに褒めて</p>
<p>喜んだということです。</p>
<p> </p>
<p>　盛岡では、兄と同じ下宿屋で一緒の生活をしました。</p>
<p>しかし、中学2年生のとき（大正15年）の夏休み中に</p>
<p>遊びすぎて体調を壊してしまいます。</p>
<p> </p>
<p>9月に入ってざらに悪化し</p>
<p>「<span style="color: #ff0000;">結核性肋膜炎</span>」と診断され</p>
<p>長期治療が必要となり一年間の</p>
<p>休学を余儀なくされます。</p>
<p> </p>
<p>これが大作の人生の大きな転機と</p>
<p>なっていきます。</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>休暇取得の分散化を考える</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=280</link>
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		<pubDate>Mon, 19 Jul 2010 09:42:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ニュースで一言]]></category>

		<category><![CDATA[観光で一言]]></category>

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		<description><![CDATA[ 
 
　観光業界で、いま話題（？）となっているのが
観光庁が提唱し法制化を目指している
「休暇の分散化」についての議論です。
 
仕組みとしては
現在、春に集中している連休（ゴールデンウィーク）を
春と秋に分ける。
その上で、地域ごとにその連休を分散化するというものです。
 
観光庁はその経済効果は一兆円　と試算しています。
各業界から賛否両論、いろいろな意見が出ていますが
真っ先に賛成してくれると思っていた観光業界
とくに旅館ホテル業界からも反対の意見があり
戸惑っているようです。
 
だいたい三分の一が賛成で
三分の一が反対、
あとの三分の一はやってみなければわからない。
 
といったところのようです。
反対の理由としては
1.　人気の観光地や施設のみに集中し
　マイナーな観光地や宿泊施設は逆に苦境となる。
2.　休日の大型化が増えると海外旅行に流れるのではないか？
3.　比較的高額で取れていた宿泊料金が分散化で下がってしまい
　ただ単に、売上の減少になってしまう。
などなど。
 
本音としては、
「不況状況にある宿泊産業において
環境をいじることで、これ以上落ち込んだらたまらない。」
ということだと思います。
 
私は、やってみなければわからない。という立場です。
恒久的制度にするのではなく、
数年後には見直しや修正をすることを前提として
やってみたらいいと思います。
 
いま、日本経済を覆っている　”閉塞感”　
を打破するためにもやってみるといいと思います。
が、
今回の参議院選挙で民主党が敗れたので
どうなっていくか
 
ますます不透明になってきました。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>　観光業界で、いま話題（？）となっているのが</p>
<p>観光庁が提唱し法制化を目指している</p>
<p>「休暇の分散化」についての議論です。</p>
<p> </p>
<p>仕組みとしては</p>
<p>現在、春に集中している連休（ゴールデンウィーク）を</p>
<p>春と秋に分ける。</p>
<p>その上で、地域ごとにその連休を分散化するというものです。</p>
<p> </p>
<p>観光庁はその経済効果は<strong><span style="color: #ff0000;">一兆円　</span></strong>と試算しています。</p>
<p>各業界から賛否両論、いろいろな意見が出ていますが</p>
<p>真っ先に賛成してくれると思っていた観光業界</p>
<p>とくに旅館ホテル業界からも反対の意見があり</p>
<p>戸惑っているようです。</p>
<p> </p>
<p>だいたい三分の一が賛成で</p>
<p>三分の一が反対、</p>
<p>あとの三分の一はやってみなければわからない。</p>
<p> </p>
<p>といったところのようです。</p>
<p>反対の理由としては</p>
<p>1.　人気の観光地や施設のみに集中し</p>
<p>　マイナーな観光地や宿泊施設は逆に苦境となる。</p>
<p>2.　休日の大型化が増えると海外旅行に流れるのではないか？</p>
<p>3.　比較的高額で取れていた宿泊料金が分散化で下がってしまい</p>
<p>　ただ単に、売上の減少になってしまう。</p>
<p>などなど。</p>
<p> </p>
<p>本音としては、</p>
<p>「不況状況にある宿泊産業において</p>
<p>環境をいじることで、これ以上落ち込んだらたまらない。」</p>
<p>ということだと思います。</p>
<p> </p>
<p>私は、やってみなければわからない。という立場です。</p>
<p>恒久的制度にするのではなく、</p>
<p>数年後には見直しや修正をすることを前提として</p>
<p>やってみたらいいと思います。</p>
<p> </p>
<p>いま、日本経済を覆っている　”閉塞感”　</p>
<p>を打破するためにもやってみるといいと思います。</p>
<p>が、</p>
<p>今回の参議院選挙で民主党が敗れたので</p>
<p>どうなっていくか</p>
<p> </p>
<p>ますます不透明になってきました。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その１１　「四代目　逸郎と長男豊の巻２」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=273</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=273#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 09 Jun 2010 01:48:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=273</guid>
		<description><![CDATA[ 
 
　豊は中学を卒業後、帰ってきて家業を手伝います。
しかし、よく言えば　”多趣味多芸」”　ですが
悪く言えば、　”遊び人”　の気質があったようです。
 
音楽では、ハーモニカやバイオリンを弾いたり
スポーツでは、ピンポンやテニスに夢中になったり
将棋や花札なども大好きだったようです。
 
また、女性にもモテたようで、
しかも惚れやすい性分で
何回か結婚騒ぎを起こしたようです。
（今で言えば、石田純一のような人かも、、、、）
俗に言う
プレーボーイだったようです。
 
　逸郎は、負債もまだまだある中で
跡継ぎが　豊　では先行きがないと悩み
志戸平温泉の売却譲渡も考えるほどでした。
 
　志戸平温泉が借金の返済に追われている間に
花巻温泉が　大投資をして華々しく開業し
多数のお客様を集めるようになります。
 
　また、大沢温泉、鉛温泉も順次設備投資で
拡張していき、電車も大正１４年には鉛温泉まで
開通したことで、お客様を奪われていくようになり
次第に経営は厳しさを増すようになりました。
 
　
　そのような中で、昭和２年から始まった
「昭和の大恐慌」がさらなる苦境へと
追いやられることになります。
 
全国各地で銀行の倒産が相次ぎ
岩手県のにもその余波が及ぶようになり
ついに盛岡銀行も倒産してしまいます。
 
　盛岡銀行からの負債を抱えている
志戸平（久保田家）が、その債務整理から
競売されるということを心配した逸郎は
心労のあまり病床に臥してしまいます。
 
　ここで、長男　豊の出番となりました。
孤軍奮闘、百方画策した結果
湯口村当局の同情で、負債を肩代わりしてくれる
こととなり、経営の危機を脱することが出来たのです。
 
　しかし、
虚弱体質だった豊は、奔走の疲れから肺炎を再発し
昭和８年３月１２日の大作の誕生日の日に亡くなります。
 
亡くなる日の朝
「大ちゃん（大作の愛称）、今日はおまえの誕生日だけど
今日、俺は死ぬだろう。
お前は俺の分も親孝行を頼む！！」と言ったそうです。
 
　逸郎の悲嘆は大きく、出棺のときは慟哭して
見送ったと言うことです。
しかし、後日
「豊を亡くしたのは非常に悲しいけれども
大作ならこの後をやっていけるだろう。
親としては辛いけれども
経営者としては、ほっとしている、
複雑な気持ちだな、、、。」　と語ったということです。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>　豊は中学を卒業後、帰ってきて家業を手伝います。</p>
<p>しかし、よく言えば　”多趣味多芸」”　ですが</p>
<p>悪く言えば、　”遊び人”　の気質があったようです。</p>
<p> </p>
<p>音楽では、ハーモニカやバイオリンを弾いたり</p>
<p>スポーツでは、ピンポンやテニスに夢中になったり</p>
<p>将棋や花札なども大好きだったようです。</p>
<p> </p>
<p>また、女性にもモテたようで、</p>
<p>しかも惚れやすい性分で</p>
<p>何回か結婚騒ぎを起こしたようです。</p>
<p>（今で言えば、石田純一のような人かも、、、、）</p>
<p>俗に言う</p>
<p><span style="color: #ff0000;">プレーボーイだったようです。</span></p>
<p> </p>
<p>　逸郎は、負債もまだまだある中で</p>
<p>跡継ぎが　豊　では先行きがないと悩み</p>
<p>志戸平温泉の売却譲渡も考えるほどでした。</p>
<p> </p>
<p>　志戸平温泉が借金の返済に追われている間に</p>
<p>花巻温泉が　大投資をして華々しく開業し</p>
<p>多数のお客様を集めるようになります。</p>
<p> </p>
<p>　また、大沢温泉、鉛温泉も順次設備投資で</p>
<p>拡張していき、電車も大正１４年には鉛温泉まで</p>
<p>開通したことで、お客様を奪われていくようになり</p>
<p>次第に経営は厳しさを増すようになりました。</p>
<p> </p>
<p>　</p>
<p>　そのような中で、昭和２年から始まった</p>
<p>「昭和の大恐慌」がさらなる苦境へと</p>
<p>追いやられることになります。</p>
<p> </p>
<p>全国各地で銀行の倒産が相次ぎ</p>
<p>岩手県のにもその余波が及ぶようになり</p>
<p>ついに盛岡銀行も倒産してしまいます。</p>
<p> </p>
<p>　盛岡銀行からの負債を抱えている</p>
<p>志戸平（久保田家）が、その債務整理から</p>
<p>競売されるということを心配した逸郎は</p>
<p>心労のあまり病床に臥してしまいます。</p>
<p> </p>
<p>　ここで、長男　豊の出番となりました。</p>
<p>孤軍奮闘、百方画策した結果</p>
<p>湯口村当局の同情で、負債を肩代わりしてくれる</p>
<p>こととなり、経営の危機を脱することが出来たのです。</p>
<p> </p>
<p>　しかし、</p>
<p>虚弱体質だった豊は、奔走の疲れから肺炎を再発し</p>
<p><span style="color: #3366ff;">昭和８年３月１２日の大作の誕生日の日に亡くなります。</span></p>
<p> </p>
<p>亡くなる日の朝</p>
<p><span style="color: #3366ff;">「大ちゃん（大作の愛称）、今日はおまえの誕生日だけど</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">今日、俺は死ぬだろう。</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">お前は俺の分も親孝行を頼む！！」と言ったそうです。</span></p>
<p> </p>
<p>　逸郎の悲嘆は大きく、出棺のときは慟哭して</p>
<p>見送ったと言うことです。</p>
<p>しかし、後日</p>
<p>「豊を亡くしたのは非常に悲しいけれども</p>
<p>大作ならこの後をやっていけるだろう。</p>
<p>親としては辛いけれども</p>
<p>経営者としては、ほっとしている、</p>
<p>複雑な気持ちだな、、、。」　と語ったということです。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?feed=rss2&amp;p=273</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その10　「四代目　逸郎と長男豊の巻１」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=263</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=263#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 31 May 2010 07:38:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=263</guid>
		<description><![CDATA[ 
 
　四代目逸郎は22歳のときに石鳥谷の菊池家から
17歳の娘「キソ」を嫁にしました。
５男３女を授かりますが、実は五代目大作は
次男として生まれています。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　逸郎　＝　キソ　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　
　　　＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿　
　　　｜　　　　｜　　　　　｜　　　　｜　　　　　｜　　　　　｜　　　　　　｜　　　　｜
　　キン　　　　豊　　　　テイ　　　大作　　　正四郎　　　大蔵　　　大八郎　　　コウ
　（長女）　（長男）　　（次女）　　（次男）　　（三男）　　（四男）　　（五男）　　（三女）
 
 
　しかし、長男は昭和８年に２５歳で亡くなり、
四男の大蔵も昭和１２年に２３歳の若さで病死してしまいました。
 
次女のテイは、土沢（東和町）の佐々長醸造に嫁ぎ、
三男の正四郎（しょうしろう）は碇ヶ関村（現.平川市）に温泉旅館
「大丸ホテル（現.関の湯）」を開業し、
五男の大八郎は当地で「志戸平商事」「みなみタクシー」を創業し、
現在に至っています。
 
大正時代に入ると路面電車の開通とともに
賑わいを見せるようになりましたが
本家の負債の返済に追われている
志戸平温泉には資金的余裕はありませんでした。
 
やっとの思いで、大正１３年に盛岡銀行の融資の斡旋により
晴れて温泉源、敷地、建物を久保田家に取り戻すことが
できました。
しかし、これが後々、苦難のもととなります。
 
　長男の豊は、明治４２年に生まれ、祖父音治から
待ちかねた男孫として大変可愛がられました。
（音治は翌年に死去）
 
名前は「豊」でしたが周りからは「麿（まろ）」とか
「まっちゃん」とか呼ばれていたようです。
まさに　”お坊ちゃま”扱いだったようです。
 
祖父ゆずりの頭脳明晰のところがあり
小学校１年生の時には百人一首をすべて暗記し
お客様相手の「かるた大会」で大人を負かしてしまう
ほどの腕前だったようです。
 
優秀な成績で盛岡中学(現盛岡一高）に入学しますが
生来、体が弱く中学５年生のときに肺炎を患い
一ヶ月間入院します。
これが早死にのきっかけだったと思います。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
 
 
　　　　　
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>　四代目逸郎は22歳のときに石鳥谷の菊池家から</p>
<p>17歳の娘「キソ」を嫁にしました。</p>
<p>５男３女を授かりますが、実は五代目大作は</p>
<p>次男として生まれています。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　逸郎　＝　キソ　　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　｜　</p>
<p>　　　＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿　</p>
<p>　　　｜　　　　｜　　　　　｜　　　　｜　　　　　｜　　　　　｜　　　　　　｜　　　　｜</p>
<p>　　キン　　　　豊　　　　テイ　　　大作　　　正四郎　　　大蔵　　　大八郎　　　コウ</p>
<p>　（長女）　（長男）　　（次女）　　（次男）　　（三男）　　（四男）　　（五男）　　（三女）</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>　しかし、長男は昭和８年に２５歳で亡くなり、</p>
<p>四男の大蔵も昭和１２年に２３歳の若さで病死してしまいました。</p>
<p> </p>
<p>次女のテイは、土沢（東和町）の佐々長醸造に嫁ぎ、</p>
<p>三男の正四郎（しょうしろう）は碇ヶ関村（現.平川市）に温泉旅館</p>
<p>「大丸ホテル（現.関の湯）」を開業し、</p>
<p>五男の大八郎は当地で「志戸平商事」「みなみタクシー」を創業し、</p>
<p>現在に至っています。</p>
<p> </p>
<p>大正時代に入ると路面電車の開通とともに</p>
<p>賑わいを見せるようになりましたが</p>
<p>本家の負債の返済に追われている</p>
<p>志戸平温泉には資金的余裕はありませんでした。</p>
<p> </p>
<p>やっとの思いで、大正１３年に盛岡銀行の融資の斡旋により</p>
<p>晴れて温泉源、敷地、建物を久保田家に取り戻すことが</p>
<p>できました。</p>
<p>しかし、これが後々、苦難のもととなります。</p>
<p> </p>
<p>　長男の豊は、明治４２年に生まれ、祖父音治から</p>
<p>待ちかねた男孫として大変可愛がられました。</p>
<p>（音治は翌年に死去）</p>
<p> </p>
<p>名前は「豊」でしたが周りからは「麿（まろ）」とか</p>
<p>「まっちゃん」とか呼ばれていたようです。</p>
<p>まさに　”お坊ちゃま”扱いだったようです。</p>
<p> </p>
<p>祖父ゆずりの頭脳明晰のところがあり</p>
<p>小学校１年生の時には百人一首をすべて暗記し</p>
<p>お客様相手の「かるた大会」で大人を負かしてしまう</p>
<p>ほどの腕前だったようです。</p>
<p> </p>
<p>優秀な成績で盛岡中学(現盛岡一高）に入学しますが</p>
<p>生来、体が弱く中学５年生のときに肺炎を患い</p>
<p>一ヶ月間入院します。</p>
<p>これが早死にのきっかけだったと思います。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>　　　　　</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?feed=rss2&amp;p=263</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その９　「大正の観光ブーム」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=243</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=243#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 30 Apr 2010 08:19:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=243</guid>
		<description><![CDATA[ 
 
四代目逸郎は、明治４３年、２７歳のときに跡をついでいます。
 
大正２年に客室数２０室を増築し
当時としては珍しい洋風造りの大浴場も作りました。
　　　　　　　　　　（当時のはがき写真）
　　　　　　　　　　　　　　　　↓　↓　

 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、この年の３月に五代目となる「大作」が生まれました。
その命名のときに大作の祖母のキヨが
「こんな大きな建築は二度と出来ないと思う。
そんなときに生まれた子だから　”大作”　と付けよ。」
ということで名づけられたということです。
 
また、副業として養蚕もやるなど
若さの勢いで事業を拡大していきました。
 
そして、大正４年には、東北では始めての路面電車が
一本杉まで、５年には二ツ堰まで開通し
皇室一族の北白川宮様の宿泊先にも選ばれることなります。
 
そこで、急遽、旅籠館（旅館）を増築することになり
８室の旅館棟を作りました。
これが、湯治宿から旅館へと業態を伸ばしていくきっかけとなります。
 
その後、路面電車は、大正１２年に志戸平まで開通し
当時の写真を見ると電柱に「しだて」と表示されていますので
その当時は、地元での呼称は「しだて」だったということです。
 
大正１４年には鉛温泉まで開通し
昭和４３年に路線が廃止になるまで
地元の生活交通としてはもとより
（わたしは高校１年生までこの電車で通学しました。）
温泉客を運ぶ重要な交通手段として繁栄しました。
 
また、これと呼応する形で、花巻の湯本地区に
岩手県の財閥である金田一財閥が中心となって
「岩手の軽井沢」を標榜して
大正１２年「花巻温泉」を創業しました。
 
この大正年間の花巻は、まさに観光ブームと温泉ブーム
で賑わった時期であったようです。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/e58699e79c9f11.jpg"></a> </p>
<p> </p>
<p>四代目逸郎は、明治４３年、２７歳のときに跡をついでいます。</p>
<p> </p>
<p>大正２年に客室数２０室を増築し</p>
<p>当時としては珍しい洋風造りの大浴場も作りました。</p>
<p>　　　　　　　　　　（当時のはがき写真）</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　↓　↓　</p>
<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/e58699e79c9f12.jpg"><img class="alignleft size-large wp-image-252" title="e58699e79c9f12" src="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/e58699e79c9f12-454x289.jpg" alt="e58699e79c9f12" width="454" height="289" /></a></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> そして、この年の３月に五代目となる「大作」が生まれました。</p>
<p>その命名のときに大作の祖母のキヨが</p>
<p>「こんな大きな建築は二度と出来ないと思う。</p>
<p>そんなときに生まれた子だから　”大作”　と付けよ。」</p>
<p>ということで名づけられたということです。</p>
<p> </p>
<p>また、副業として養蚕もやるなど</p>
<p>若さの勢いで事業を拡大していきました。</p>
<p> </p>
<p>そして、大正４年には、東北では始めての路面電車が</p>
<p>一本杉まで、５年には二ツ堰まで開通し</p>
<p>皇室一族の北白川宮様の宿泊先にも選ばれることなります。</p>
<p> </p>
<p>そこで、急遽、旅籠館（旅館）を増築することになり</p>
<p>８室の旅館棟を作りました。</p>
<p>これが、湯治宿から旅館へと業態を伸ばしていくきっかけとなります。</p>
<p> </p>
<p>その後、路面電車は、大正１２年に志戸平まで開通し</p>
<p>当時の写真を見ると電柱に「しだて」と表示されていますので</p>
<p>その当時は、地元での呼称は「しだて」だったということです。</p>
<p> </p>
<p>大正１４年には鉛温泉まで開通し</p>
<p>昭和４３年に路線が廃止になるまで</p>
<p>地元の生活交通としてはもとより</p>
<p>（わたしは高校１年生までこの電車で通学しました。）</p>
<p>温泉客を運ぶ重要な交通手段として繁栄しました。</p>
<p> </p>
<p>また、これと呼応する形で、花巻の湯本地区に</p>
<p>岩手県の財閥である金田一財閥が中心となって</p>
<p>「岩手の軽井沢」を標榜して</p>
<p>大正１２年「花巻温泉」を創業しました。</p>
<p> </p>
<p>この大正年間の花巻は、まさに観光ブームと温泉ブーム</p>
<p>で賑わった時期であったようです。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>上海に行ってきました。</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=238</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=238#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 18 Apr 2010 09:24:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[観光で一言]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=238</guid>
		<description><![CDATA[
上海万博の開催予定地です。
（真ん中のピンクっぽい建物が日本館です）
 
４月１４日から２泊３日で上海と杭州を駆け足で旅行してきました。
目的は中国（上海、杭州）の旅行事情を研修することでしたが、
５月１日から始まる「上海万博」の直前の状況も見れたら
ということでした。
 
会場の工事はほぼ終わっているようでしたが
日ごとに警備体制が強化されており
会場近くには近づけない状況でした。
 
上の写真は、会場の隣に上海万博に合わせて
オープンする予定のインターコンチネンタルホテルに
特別に入れてもらって、最上階のスィートルームから
撮ったものです。
 
５月１日にオープンするということで
スタッフが研修中でした。
（あと二週間足らずオープンなのに中国人の気質なのでしょうか
結構のんびりやってました。）
 

上海万博をイメージしたエントランスロビーの絨毯。
 
一番に感じたのは、中国の経済の”勢い”でした。
今年は中国は上海万博で国内旅行が 大いに賑わうと思いますが
その次に来るのは「日本観光」になるように感じました。
 
かつて、大阪万博で旅行ブームとなった、７０年代の日本を
彷彿してしまいました。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/e4b88ae6b5b7e4b887e58d9a.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-239" title="e4b88ae6b5b7e4b887e58d9a" src="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/e4b88ae6b5b7e4b887e58d9a-300x168.jpg" alt="e4b88ae6b5b7e4b887e58d9a" width="300" height="168" /></a></p>
<p>上海万博の開催予定地です。</p>
<p>（真ん中のピンクっぽい建物が日本館です）</p>
<p> </p>
<p>４月１４日から２泊３日で上海と杭州を駆け足で旅行してきました。</p>
<p>目的は中国（上海、杭州）の旅行事情を研修することでしたが、</p>
<p>５月１日から始まる「上海万博」の直前の状況も見れたら</p>
<p>ということでした。</p>
<p> </p>
<p>会場の工事はほぼ終わっているようでしたが</p>
<p>日ごとに警備体制が強化されており</p>
<p>会場近くには近づけない状況でした。</p>
<p> </p>
<p>上の写真は、会場の隣に上海万博に合わせて</p>
<p>オープンする予定のインターコンチネンタルホテルに</p>
<p>特別に入れてもらって、最上階のスィートルームから</p>
<p>撮ったものです。</p>
<p> </p>
<p>５月１日にオープンするということで</p>
<p>スタッフが研修中でした。</p>
<p>（あと二週間足らずオープンなのに中国人の気質なのでしょうか</p>
<p>結構のんびりやってました。）</p>
<p> </p>
<p><a href="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/nec_0039.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-240" title="nec_0039" src="http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/wp-content/uploads/2010/04/nec_0039-168x300.jpg" alt="nec_0039" width="168" height="300" /></a></p>
<p>上海万博をイメージしたエントランスロビーの絨毯。</p>
<p> </p>
<p>一番に感じたのは、中国の経済の<span style="color: #ff0000;">”<strong>勢い</strong>”</span>でした。</p>
<p>今年は中国は上海万博で国内旅行が 大いに賑わうと思いますが</p>
<p>その次に来るのは「日本観光」になるように感じました。</p>
<p> </p>
<p>かつて、大阪万博で旅行ブームとなった、７０年代の日本を</p>
<p>彷彿してしまいました。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?feed=rss2&amp;p=238</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　　その８　　「新渡戸　傳のこと　」　</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=231</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=231#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 02 Apr 2010 06:59:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=231</guid>
		<description><![CDATA[ 
 
　四代目逸郎は、曽祖父の新渡戸　傳（つとう）に似ている
といわれたようです。
 
　話しは脱線しますが、
新渡戸　傳は幕末の南部藩士で
忠臣かつ「知恵袋」といわれた人物です。
 
南部藩が幕府から大量の木材を期限付きで
江戸に搬入することを命ぜられ
藩内は当惑し、困り果ててしまいます。
 
そこで、南部藩の知恵袋と言われた「傳」
に一任します。
 
彼は宮古まで木材を搬送して
そこから”いかだ”に組んで
首尾よく江戸まで曳航し、やり遂げたのでした。
 
その功績による禄は辞退し
三戸郡三本木原（現十和田市）の原野の
開墾事業を申し出て、その後新渡戸家三代に亘って
灌漑水路や掘削事業など都市整備に尽力し、
十和田市発展の礎をつくった人物です。
 
もともと新渡戸家の祖先は、花巻の矢沢地区に
在住していたということで、
現在、花巻市と十和田市は姉妹都市となり
「花巻新渡戸記念館」
　http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/nitobe/index.html
が矢沢地区に建てられた所以になっているのです。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p>　四代目逸郎は、曽祖父の新渡戸　傳（つとう）に似ている</p>
<p>といわれたようです。</p>
<p> </p>
<p>　話しは脱線しますが、</p>
<p><span style="color: #ff0000;">新渡戸　傳</span>は幕末の南部藩士で</p>
<p>忠臣かつ「知恵袋」といわれた人物です。</p>
<p> </p>
<p>南部藩が幕府から大量の木材を期限付きで</p>
<p>江戸に搬入することを命ぜられ</p>
<p>藩内は当惑し、困り果ててしまいます。</p>
<p> </p>
<p>そこで、南部藩の知恵袋と言われた「傳」</p>
<p>に一任します。</p>
<p> </p>
<p>彼は宮古まで木材を搬送して</p>
<p>そこから”いかだ”に組んで</p>
<p>首尾よく江戸まで曳航し、やり遂げたのでした。</p>
<p> </p>
<p>その功績による禄は辞退し</p>
<p>三戸郡三本木原（現十和田市）の原野の</p>
<p>開墾事業を申し出て、その後新渡戸家三代に亘って</p>
<p>灌漑水路や掘削事業など都市整備に尽力し、</p>
<p>十和田市発展の礎をつくった人物です。</p>
<p> </p>
<p>もともと新渡戸家の祖先は、花巻の矢沢地区に</p>
<p>在住していたということで、</p>
<p>現在、花巻市と十和田市は姉妹都市となり</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「花巻新渡戸記念館」</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;">　</span><a href="http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/nitobe/index.html">http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/nitobe/index.html</a></p>
<p>が矢沢地区に建てられた所以になっているのです。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?feed=rss2&amp;p=231</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>志戸平温泉の歴史　その７　「四代目逸郎」</title>
		<link>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=222</link>
		<comments>http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=222#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 01 Apr 2010 08:04:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ceo</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<category><![CDATA[歴史で一言]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.shidotaira.co.jp/voice/ceo/?p=222</guid>
		<description><![CDATA[ 
 
 
　三代目音治（おとじ）は、本家の倒産による負債の肩代わり
による苦労とその逆境悲運の中で腰痛（脊髄病）を患い
のちの事を心配しつつ、明治４３年に４７歳の若さで亡くなりました。
 
四代目逸郎（いつろう）は明治１７年に生まれていますが
父音治には子供を養育する余裕がなかったために
母キヨの実家で育てられました。
 
キヨは、本家平助（５代目）の次女キクが嫁いだ
新渡戸家とゆかりの深い「鬼柳・鈴木家」で次女として
生まれた人です。
 
つまり、逸郎にとってキクは久保田本家から行った祖母だったのです。
 
そのために、実家では大変かわいがられ
学校も鬼柳小学校に入り、その後盛岡中学（現　盛岡一高）にも
通わせてもらったようです。
 
彼は頭が大きくて、走るときに頭の反動で勢いづかせて
いる姿が曽祖父の新渡戸傳（つとう　稲造の祖父）に似ていると
囃されたそうです。
 
中学校を卒業後、当時、志ある青年の間に
「アメリカに渡って一旗上げよう！」という風潮があり
彼もそれを企てたようですが、母から
 
「家業が困窮しているのだから、志戸平を再建するように、、、。」
と泣きながらに懇願されて、
思いとどまって四代目を継ぐ決意をしたのでした。
 
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>　三代目音治（おとじ）は、本家の倒産による負債の肩代わり</p>
<p>による苦労とその逆境悲運の中で腰痛（脊髄病）を患い</p>
<p>のちの事を心配しつつ、明治４３年に４７歳の若さで亡くなりました。</p>
<p> </p>
<p>四代目逸郎（いつろう）は明治１７年に生まれていますが</p>
<p>父音治には子供を養育する余裕がなかったために</p>
<p>母キヨの実家で育てられました。</p>
<p> </p>
<p>キヨは、本家平助（５代目）の次女キクが嫁いだ</p>
<p>新渡戸家とゆかりの深い「鬼柳・鈴木家」で次女として</p>
<p>生まれた人です。</p>
<p> </p>
<p>つまり、逸郎にとってキクは久保田本家から行った祖母だったのです。</p>
<p> </p>
<p>そのために、実家では大変かわいがられ</p>
<p>学校も鬼柳小学校に入り、その後盛岡中学（現　盛岡一高）にも</p>
<p>通わせてもらったようです。</p>
<p> </p>
<p>彼は頭が大きくて、走るときに頭の反動で勢いづかせて</p>
<p>いる姿が<span style="color: #ff0000;">曽祖父の新渡戸傳（つとう　稲造の祖父）に似ていると</span></p>
<p>囃されたそうです。</p>
<p> </p>
<p>中学校を卒業後、当時、志ある青年の間に</p>
<p>「アメリカに渡って一旗上げよう！」という風潮があり</p>
<p>彼もそれを企てたようですが、母から</p>
<p> </p>
<p>「家業が困窮しているのだから、志戸平を再建するように、、、。」</p>
<p>と泣きながらに懇願されて、</p>
<p>思いとどまって四代目を継ぐ決意をしたのでした。</p>
<p> </p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）</p>
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