大正15年、大作が中学2年のときに患った
「結核性肋膜炎」に、医者からは
「助からないかもしれない。」と言われました。
まさに、九死に一生 を得て
翌年(昭和2年)の5月に退院し
自宅療養(温泉療養)を2年ほど続けました。
それ以来、彼の人生では
「一のも健康、二にも健康、三にも健康」が口癖で
私の少年時代にも
「勉強もスポーツも出来がよくなくてもいいから健康を第一にしなさい。」
といわれたものです。
(そのせいか、私は勉強もスポーツも中途半端な学生生活を送ってしまいました。)
この考えは終生変わらず、87歳で
「急性心不全」で他界するまで
「健康第一」で生き抜いた人生でした。
さて、昭和4年の春頃からは体調もよくなって来たため
盛岡中学への復校を願い出ます。
しかし、学校の規則として
一年生からの復学しか認められないということでした。
同級生はすでに5年生となり
弟の正四郎も同じ中学の3年生になっており
同級生や弟までにも ”脱帽の礼”
をしなくてはならず、耐え難かったようです。
(つづく)


