温泉社長のちょっと一言

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志戸平温泉の歴史 その14 「五代目大作 3~転機2」

2010 年 9 月 3 日 金曜日

 

 

昭和4年の秋、

 父、逸郎のいとこが水戸の高等学校に

勤めている縁から県立水戸中学校付属夜間中学に

3年生で二学期から入学できることとなった。

 

久し振りに出来る勉学に深い喜びを感じたようです。

冬休みに帰郷したときは

息子の元気な姿をみて、母キソは

涙を流して喜んでくれたのでした。

 

 

 翌年(昭和5年)には、私立茨城中学校の

4年生に編入学し、通常の学生生活に戻ったのでした。

そのころのエピソードを酒を飲むと

よく聞かされたものです。

 

たとえば、

「軍事教練放棄事件」~

攻撃隊の中隊長だったときに

「馬鹿馬鹿しいからやめよう!」と解散してしまい

教官大尉から呆れられた事件。

 

「通信簿訂正事件」~

テストで答案を見せてやった級友が ”甲”で

自分が ”丙”だったことに憤慨し

教師に直談判して ”甲” に訂正させた事件。

などなど、、、、、。

 

「私は盛岡中学の友達と茨城中学の友達と2つ持っている。

すごく得した学生時代だったと思う。」

と言ったことがあります。

 

人生の逆境も考え方で

幸福にも見えるし、不幸にも見えるということです。

 

                   (つづく)

志戸平温泉の歴史  その8  「新渡戸 傳のこと 」 

2010 年 4 月 2 日 金曜日

 

 

 四代目逸郎は、曽祖父の新渡戸 傳(つとう)に似ている

といわれたようです。

 

 話しは脱線しますが、

新渡戸 傳は幕末の南部藩士で

忠臣かつ「知恵袋」といわれた人物です。

 

南部藩が幕府から大量の木材を期限付きで

江戸に搬入することを命ぜられ

藩内は当惑し、困り果ててしまいます。

 

そこで、南部藩の知恵袋と言われた「傳」

に一任します。

 

彼は宮古まで木材を搬送して

そこから”いかだ”に組んで

首尾よく江戸まで曳航し、やり遂げたのでした。

 

その功績による禄は辞退し

三戸郡三本木原(現十和田市)の原野の

開墾事業を申し出て、その後新渡戸家三代に亘って

灌漑水路や掘削事業など都市整備に尽力し、

十和田市発展の礎をつくった人物です。

 

もともと新渡戸家の祖先は、花巻の矢沢地区に

在住していたということで、

現在、花巻市と十和田市は姉妹都市となり

「花巻新渡戸記念館」

 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/nitobe/index.html

が矢沢地区に建てられた所以になっているのです。

 

                     (つづく)

志戸平温泉の歴史 その7 「四代目逸郎」

2010 年 4 月 1 日 木曜日

 

 

 

 三代目音治(おとじ)は、本家の倒産による負債の肩代わり

による苦労とその逆境悲運の中で腰痛(脊髄病)を患い

のちの事を心配しつつ、明治43年に47歳の若さで亡くなりました。

 

四代目逸郎(いつろう)は明治17年に生まれていますが

父音治には子供を養育する余裕がなかったために

母キヨの実家で育てられました。

 

キヨは、本家平助(5代目)の次女キクが嫁いだ

新渡戸家とゆかりの深い「鬼柳・鈴木家」で次女として

生まれた人です。

 

つまり、逸郎にとってキクは久保田本家から行った祖母だったのです。

 

そのために、実家では大変かわいがられ

学校も鬼柳小学校に入り、その後盛岡中学(現 盛岡一高)にも

通わせてもらったようです。

 

彼は頭が大きくて、走るときに頭の反動で勢いづかせて

いる姿が曽祖父の新渡戸傳(つとう 稲造の祖父)に似ていると

囃されたそうです。

 

中学校を卒業後、当時、志ある青年の間に

「アメリカに渡って一旗上げよう!」という風潮があり

彼もそれを企てたようですが、母から

 

「家業が困窮しているのだから、志戸平を再建するように、、、。」

と泣きながらに懇願されて、

思いとどまって四代目を継ぐ決意をしたのでした。

 

                        (つづく)

志戸平温泉の歴史 その6 「久保田家の苦悩」

2010 年 3 月 20 日 土曜日

 

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  上図が家系図となります。

二代目善太郎は31歳であとを継ぎ、35歳のときに明治に変わり

中央から遠く離れた志戸平ではありましたが、社会情勢は激動の

中にあったと思います。

 

しかし、彼の性格は軽率で早合点であわてものの意味で

”トッツキ万次郎(旧名)”と言われていたという事です。

家業においても目立った事業はしなかったようで

明治初期の大変革期をじっとたえた時代だったようです。

 

三代目音冶は、明治24年の28歳になったときに

あとを継いでいます。

彼は頭脳明晰で算術を独学で学習した学者タイプの

秀才肌の人だったようです。

 

そして、彼の時代に事業も拡大させ

10室だった客室寮のほかに2階建ての

12室の客室寮を増築(西寮と呼んでいた)し、

川向こうにあった風呂場を川越しに引湯して

湯舎を敷地内に作って大いに繁盛したようです。

 

この西寮は平成17年に志戸平旅館を取り壊すまで

「弥生館」という名称で残っていました。

 

しかし、明治39年に日露戦争後の不況の影響と

本家の放漫経営により、本家が倒産の危機に

陥りました。

 

音治はその明晰な頭脳で抜本的な再建案を

提案しましたが、世間体のことや目先のことしか

考えない本家当主の平太郎は、まだ若い分家の

意見は聞いてもらえなかったのです。

 

ましてや、11番目の末席の分家でもありました。

その当時のことを父(大作)は祖父(逸郎)から

「父から聞いた話し」としてその悔しい思いを

何度も聞かされたということです。

 

結局、大沢温泉を売却し、全分家が借金を負担することで

その窮地を脱したということです。

 

当家も、山林5町歩を手放し、温泉敷地を抵当に

20年返済の借金をして本家を助けたのでした。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

志戸平温泉の歴史5 “私の名前は六代目善太郎?”の巻

2010 年 1 月 16 日 土曜日

 前回は、温泉の源泉が岸壁から湧き出ていた

 というというところまで書きました。

 

 当時のお風呂は洞窟風呂でその上部に窓があったので

 「マドの湯」と言っていたようです。

 現在も対岸に見えます。

 

 川には丸太橋を架けて歩いていったようです。

 夜は、提灯を片手に入りに行ったということで、

 ものすごい風情を感じますが、

 雪の日や川の水が増水した時は大変だったと思います。

 

 また、文献には、志戸平温泉について

 「天王山の麓(天王地区:ホテルから見える橋を渡った対岸の地区)

  より沸き出でる温泉を八十二間の筧(樋)にて引き、

  温泉場として再興してより・・・」とあります。

 

 近隣の人たちがこの湧き湯口でワラビを茹でたことから

 「わらびの湯」といわれたとありますが、

 それがどの温泉を指すのかはわかりません。

 

 皆さんは、山菜のあく抜きになべの水に重曹を入れると思いますが、

 あれはアルカリ性にしてあくを取りやすくするためです。

 

 志戸平温泉の泉質は弱アルカリ性ですから、

 あくが取れやすい温泉ということになります。

 昔の人も、知っていたんですね。

 

 2代目は、萬次郎という名前でしたが、父善太郎が亡くなると、

 「二代目善太郎」」を名乗りました。

 

 もし、その後も“善太郎”を名乗り続けていれば、

 私は「六代目善太郎」ということになります。

 

 いまも旅館で○○衛門とか○○郎を代々襲名している

 ところがあります。

 

 例えば、宮城県秋保温泉の佐勘さんの、現在の当主は

 34代目()佐藤勘三郎です。

 

 

 次回に続きます。