温泉社長のちょっと一言

志戸平温泉の歴史 その13 「五代目大作 2~転機」

2010 年 8 月 31 日

 

 

 大正15年、大作が中学2年のときに患った

「結核性肋膜炎」に、医者からは

「助からないかもしれない。」と言われました。

 

まさに、九死に一生 を得て

翌年(昭和2年)の5月に退院し

自宅療養(温泉療養)を2年ほど続けました。

 

 それ以来、彼の人生では

「一のも健康、二にも健康、三にも健康」が口癖で

私の少年時代にも

「勉強もスポーツも出来がよくなくてもいいから健康を第一にしなさい。」

といわれたものです。

(そのせいか、私は勉強もスポーツも中途半端な学生生活を送ってしまいました。)

 

この考えは終生変わらず、87歳で

「急性心不全」で他界するまで

「健康第一」で生き抜いた人生でした。

 

 

 

 さて、昭和4年の春頃からは体調もよくなって来たため

盛岡中学への復校を願い出ます。

しかし、学校の規則として

一年生からの復学しか認められないということでした。

 

同級生はすでに5年生となり

弟の正四郎も同じ中学の3年生になっており

同級生や弟までにも ”脱帽の礼” 

をしなくてはならず、耐え難かったようです。

 

                (つづく)

志戸平温泉の歴史 その12 「五代目大作 1」

2010 年 7 月 31 日

 

 

  

昭和8年3月12日、大作の二十歳の誕生日の日に

長男 豊 が亡くなり

五代目として大作が跡を継ぐこととなります。

 

 

   

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大正9年撮影  右より豊(10歳)、大作(6歳)、キン(12歳)

 大八郎(0歳)、テイ(8歳)、大蔵(2歳)、正四郎(4歳)

 

 

 

 

 

 

 大作の少年期は、まさに「わんぱく小僧

そのものだったようです。

 

”ジョッパリわらす(強情なわらし)”とも言われたようです。

小学1年のとき、かくれんぼをして

遊んでいたときのことです。

 

祖母キヨがお客様と話しをしている前を

横切ったことことで注意をされた。

学校では教練で失敗したら

前の通りに戻ってやり直すことが

決まりだったので、そのとうりにしたら

祖母は激怒し、土蔵倉に放り込まれてしまった。

 

祖母にすれば、注意したのに再びワザとやった

と思い込み怒った。

 

しかし、本人は悪いことをしたとは思っていない。

夜になって許されても

「キヨばあさんが来なければ、出ない!!」と

夜中まで強情を張り通したという。

 

 小学校の校長を定年退職した後

帳場の手伝いをしていた大作の叔父準一翁は

「逸郎よ、大作を良く育てよ。ぐれて育ったら

大悪党になるかもしれないが

養育の当を得れば、大物になるだろう。」

と語っていたということです。(大作の談)

 

 本人はその話を誰から聞いたのかわかりませんが

その言葉をその後の人生の糧として

あるいは、潜在意識の中に刷り込まれ

彼が苦難や逆境に遭ったときのエネルギー源

となったのかもしれません。

 

 小学校を卒業後、兄の豊と同じ盛岡中学校に

難関を突破して入学します。

わんぱく小僧としか思っていなかった

祖母キヨも、このときだけは大いに褒めて

喜んだということです。

 

 盛岡では、兄と同じ下宿屋で一緒の生活をしました。

しかし、中学2年生のとき(大正15年)の夏休み中に

遊びすぎて体調を壊してしまいます。

 

9月に入ってざらに悪化し

結核性肋膜炎」と診断され

長期治療が必要となり一年間の

休学を余儀なくされます。

 

これが大作の人生の大きな転機と

なっていきます。

             (つづく)

休暇取得の分散化を考える

2010 年 7 月 19 日

 

 

 観光業界で、いま話題(?)となっているのが

観光庁が提唱し法制化を目指している

「休暇の分散化」についての議論です。

 

仕組みとしては

現在、春に集中している連休(ゴールデンウィーク)を

春と秋に分ける。

その上で、地域ごとにその連休を分散化するというものです。

 

観光庁はその経済効果は一兆円 と試算しています。

各業界から賛否両論、いろいろな意見が出ていますが

真っ先に賛成してくれると思っていた観光業界

とくに旅館ホテル業界からも反対の意見があり

戸惑っているようです。

 

だいたい三分の一が賛成で

三分の一が反対、

あとの三分の一はやってみなければわからない。

 

といったところのようです。

反対の理由としては

1. 人気の観光地や施設のみに集中し

 マイナーな観光地や宿泊施設は逆に苦境となる。

2. 休日の大型化が増えると海外旅行に流れるのではないか?

3. 比較的高額で取れていた宿泊料金が分散化で下がってしまい

 ただ単に、売上の減少になってしまう。

などなど。

 

本音としては、

「不況状況にある宿泊産業において

環境をいじることで、これ以上落ち込んだらたまらない。」

ということだと思います。

 

私は、やってみなければわからない。という立場です。

恒久的制度にするのではなく、

数年後には見直しや修正をすることを前提として

やってみたらいいと思います。

 

いま、日本経済を覆っている ”閉塞感” 

を打破するためにもやってみるといいと思います。

が、

今回の参議院選挙で民主党が敗れたので

どうなっていくか

 

ますます不透明になってきました。

志戸平温泉の歴史 その11 「四代目 逸郎と長男豊の巻2」

2010 年 6 月 9 日

 

 

 豊は中学を卒業後、帰ってきて家業を手伝います。

しかし、よく言えば ”多趣味多芸」” ですが

悪く言えば、 ”遊び人” の気質があったようです。

 

音楽では、ハーモニカやバイオリンを弾いたり

スポーツでは、ピンポンやテニスに夢中になったり

将棋や花札なども大好きだったようです。

 

また、女性にもモテたようで、

しかも惚れやすい性分で

何回か結婚騒ぎを起こしたようです。

(今で言えば、石田純一のような人かも、、、、)

俗に言う

プレーボーイだったようです。

 

 逸郎は、負債もまだまだある中で

跡継ぎが 豊 では先行きがないと悩み

志戸平温泉の売却譲渡も考えるほどでした。

 

 志戸平温泉が借金の返済に追われている間に

花巻温泉が 大投資をして華々しく開業し

多数のお客様を集めるようになります。

 

 また、大沢温泉、鉛温泉も順次設備投資で

拡張していき、電車も大正14年には鉛温泉まで

開通したことで、お客様を奪われていくようになり

次第に経営は厳しさを増すようになりました。

 

 

 そのような中で、昭和2年から始まった

「昭和の大恐慌」がさらなる苦境へと

追いやられることになります。

 

全国各地で銀行の倒産が相次ぎ

岩手県のにもその余波が及ぶようになり

ついに盛岡銀行も倒産してしまいます。

 

 盛岡銀行からの負債を抱えている

志戸平(久保田家)が、その債務整理から

競売されるということを心配した逸郎は

心労のあまり病床に臥してしまいます。

 

 ここで、長男 豊の出番となりました。

孤軍奮闘、百方画策した結果

湯口村当局の同情で、負債を肩代わりしてくれる

こととなり、経営の危機を脱することが出来たのです。

 

 しかし、

虚弱体質だった豊は、奔走の疲れから肺炎を再発し

昭和8年3月12日の大作の誕生日の日に亡くなります。

 

亡くなる日の朝

「大ちゃん(大作の愛称)、今日はおまえの誕生日だけど

今日、俺は死ぬだろう。

お前は俺の分も親孝行を頼む!!」と言ったそうです。

 

 逸郎の悲嘆は大きく、出棺のときは慟哭して

見送ったと言うことです。

しかし、後日

「豊を亡くしたのは非常に悲しいけれども

大作ならこの後をやっていけるだろう。

親としては辛いけれども

経営者としては、ほっとしている、

複雑な気持ちだな、、、。」 と語ったということです。

 

                   (つづく)

志戸平温泉の歴史 その10 「四代目 逸郎と長男豊の巻1」

2010 年 5 月 31 日

 

 

 四代目逸郎は22歳のときに石鳥谷の菊池家から

17歳の娘「キソ」を嫁にしました。

5男3女を授かりますが、実は五代目大作は

次男として生まれています。

 

                 逸郎 = キソ  

                     | 

   _______________________________ 

   |    |     |    |     |     |      |    |

  キン    豊    テイ   大作   正四郎   大蔵   大八郎   コウ

 (長女) (長男)  (次女)  (次男)  (三男)  (四男)  (五男)  (三女)

 

 

 しかし、長男は昭和8年に25歳で亡くなり、

四男の大蔵も昭和12年に23歳の若さで病死してしまいました。

 

次女のテイは、土沢(東和町)の佐々長醸造に嫁ぎ、

三男の正四郎(しょうしろう)は碇ヶ関村(現.平川市)に温泉旅館

「大丸ホテル(現.関の湯)」を開業し、

五男の大八郎は当地で「志戸平商事」「みなみタクシー」を創業し、

現在に至っています。

 

大正時代に入ると路面電車の開通とともに

賑わいを見せるようになりましたが

本家の負債の返済に追われている

志戸平温泉には資金的余裕はありませんでした。

 

やっとの思いで、大正13年に盛岡銀行の融資の斡旋により

晴れて温泉源、敷地、建物を久保田家に取り戻すことが

できました。

しかし、これが後々、苦難のもととなります。

 

 長男の豊は、明治42年に生まれ、祖父音治から

待ちかねた男孫として大変可愛がられました。

(音治は翌年に死去)

 

名前は「豊」でしたが周りからは「麿(まろ)」とか

「まっちゃん」とか呼ばれていたようです。

まさに ”お坊ちゃま”扱いだったようです。

 

祖父ゆずりの頭脳明晰のところがあり

小学校1年生の時には百人一首をすべて暗記し

お客様相手の「かるた大会」で大人を負かしてしまう

ほどの腕前だったようです。

 

優秀な成績で盛岡中学(現盛岡一高)に入学しますが

生来、体が弱く中学5年生のときに肺炎を患い

一ヶ月間入院します。

これが早死にのきっかけだったと思います。

 

                 (つづく)