志戸平温泉の創業は天保元年(1830年)と言われており、今年はちょうど百八十年の節目にあたる年になります。
たぶん、全国では百八十年以上の歴史のある温泉はたくさんあると思いますが、それが、一つの家系で、しかも直系(養子などでなく、嫡子が代々継いでいる)で続いているところは、少ないのではないかと思います。
そこで、この機会に、父(五代目大作)が書き残したものや久保田家の家系譜から、「志戸平温泉の歴史」として、まとめてみました。
皆様に、志戸平温泉の歴史を知っていただければ幸いです。
平成二十三年 一月
六代目 久保田 浩基
〝志戸平温泉・名前の由来〞の巻

志戸平温泉場之図
温泉の由来は、今から千二百年程前の延暦年間に、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に「近くに霊泉がある」という観音様のお告げにより、この温泉を発見し、将兵の創傷を癒したと伝えられたことから始まります。
〝志戸平〞の地名は、アイヌ語の「シドタイ」から来たものと言われ、「川下の平らで広い所」の意味ということです。(祖父・四代目逸郎の話)
郷土誌には〝尻戸ヶ平〞とか〝志度ヶ台〞と出てきます。戦前は、「しだて」または「すだて」と呼ばれていたようですが、戦後に「志戸平(しどたいら)」と統一したようです。──「游泉志だて」はここから命名したものです。
「奥々風土記」という書物には、寛永年間(1624〜1642年)に『花巻の里の正西の湯口村にあり。萬の病に験あるか中に滄疥(はれもの、かゆい皮膚病)の類には最もよし』という記述があることから、江戸時代前期には温泉として知られていたようです。
同じように、古い歴史を持つ大沢温泉と鉛温泉は、江戸中期(1750年代前後)の発見とされています。
しかし、建物を建てて(木賃宿)の業は、大沢温泉が『寛政三年(1791年)久保田善助なる者、温泉場の改良につとめ・・・(中略)・・・後、久保田平造もまた、父・平助の意思を継ぎ、大いに改良せしより以来、日に増し繁盛す。』とあり、久保田家の温泉業は、大沢温泉が始まりであるということがわかります。
〝創業当時の様子〞の巻
志戸平温泉久保田家の創業は、天保元年(1830 年)ですが、その当時の社会状況はどうなっていたか。
「伊勢御かげ参り」という、今でいう〝旅行ブーム〞が起こっています。全国から伊勢神宮にお参りに行くのが、大流行したのです。
また、翌年(1831 年)にロシア船が蝦夷(北海道)に侵入してきて、役人(東北の藩士)と交戦しています。
そして、創業間もない天保四年から七年まで「天保の大飢饉」があり、花巻地方でも多くの餓死者が出るという時代でした。
志戸平温泉の創業は、初代善太郎、二代善太郎(同じ名前を継いだ)、三代音治、四代逸郎、五代大作と続いてきたのです。そもそもの久保田家のルーツを理解してもらうために、本家(屋号・晴山)の話を中心にしたいと思います。
もともとは秋田藩の藩士だったようですが、関ヶ原の戦いで徳川方に味方しなかったために久保田城を追われ、奥羽山脈を越えて来て、いまの西晴山地域(志戸平から花巻市内方向に3㎞程進んだあたり)に住み着いたのが始まり(本家)のようです。
本家の初代は江戸中期の一七〇〇年前後、善三郎という人が始まりとされていて、二代善右ェ門、三代善助、四代平助と続きます。(なぜか、〝善〞の付く人が多いです。)
地元の新田開発や治水、潅漑工事に尽力貢献しながら、大きな財力を持つようになります。花巻市内から自宅までの約8㎞を自分の田んぼだけを通って帰れる程の富豪一族になったようです。
〝久保田本家と温泉業〞の巻
本家・久保田家(屋号・晴山)と温泉業のお話です。
本家・久保田家が温泉業を始めたのは、三代善助(安永7年、1778 年没)の時代に大沢温泉に温泉場を造ったという記録が残っています。
たぶん、志戸平温泉も同じ頃に所有し、木賃宿(部屋を貸すだけで薪代として宿銭を取る。)として始めたものと思われます。
ただし、大沢温泉は本家の直営で、志戸平は番頭(支配人)営業として代々引き継がれていったようです。
五代平助(四代、五代と平助が続きます。)(安政元年、1853 年没)、六代平造(明治17年、1884年没)の時代に全盛期を迎え、前述のような豪農として栄えました。
おそらく、そんな状況の中で、志戸平温泉も宿屋を増築増床したと思われ、この際、分家とし独り立ちさせようということになったと思われます。
そして、番頭であった者を平助の長女で、平造の姉に当たるイツの婿とする形で、善太郎と名乗らせ、ここに直系分家十一分家あるうちの十一番目として志戸平・久保田家が始まったということです。
なんか、横溝正史の小説にでも出てきそうな話ですが・・・。
〝久保田家の初代〞の巻

大正5年(1916年)8月 志戸平温泉にて
(写真中央が新渡戸稲造氏)
久保田家本家の五代目、平助の長女のイツに婿をとる形で始まったのが、善太郎を初代とする志戸平温泉の始まりです。
ちなみに、イツの妹キクが嫁いだ先の叔父が新渡戸稲造であるということで、私の父( 大作)は生前、五千円札の肖像になった時、「この人は、うちの親戚だからな・・・。」と自慢げに話していたのを覚えています。
岩手に帰ってきた折には、時々、志戸平に湯治に来ていたようです。
それは、このような縁によるものかもしれません。
初代善太郎が、25才で、妻イツが17才の時といわれており、善太郎は60才(元治元年・1864 年)で亡くなりますが、イツは明治23年の78才まで生きています。
当時の敷地は豊沢川沿いの平地(現在の「天河の湯」から「游泉志だて」あたり)とそれを囲んでいる雑木林の約十町歩(10ha)くらいあったようですが、温泉の源泉は対岸の岸壁からの湧泉であったようです。
〝私の名前は六代目善太郎〞の巻
当時のお風呂は洞窟風呂でその上部に窓があったので、「マドの湯」と言っていたようです。現在も対岸に見えます。
川には丸太橋を架けて歩いていったようです。夜は、提灯を片手に入りに行ったということで、ものすごい風情を感じますが、雪の日や川の水が増水した時は大変だったと思います。
また、文献には、志戸平温泉について「天王山の麓(天王地区:ホテルから見える橋を渡った対岸の地区)より沸き出でる温泉を八十二間の筧(樋)にて引き、温泉場として再興してより・・・」とあります。
近隣の人たちがこの湧き湯口でワラビを茹でたことから「わらびの湯」といわれたとありますが、それがどの温泉を指すのかはわかりません。
皆さんは、山菜のあく抜きになべの水に重曹を入れると思いますが、あれはアルカリ性にして、あくを取りやすくするためです。
志戸平温泉の泉質は弱アルカリ性ですから、あくが取れやすい温泉ということになります。昔の人も、知っていたんですね。
二代目は、萬次郎という名前でしたが、父善太郎が亡くなると、「二代目善太郎」」を名乗りました。もし、その後も〝善太郎〞を名乗り続けていれば、私は「六代目善太郎」ということになります。
いまも旅館で○○衛門とか○○郎を代々襲名しているところがあります。
例えば、宮城県秋保温泉の佐勘さんの、現在の当主は三十四代目、佐藤勘三郎です。
〝久保田家の苦悩〞の巻

右図が家系図となります。
二代目善太郎は31歳であとを継ぎ、35歳のときに明治に変わり、中央から遠く離れた志戸平ではありましたが、社会情勢は激動の中にあったと思います。
しかし、彼の性格は軽率で早合点であわてものの意味で〝トッツキ万次郎(旧名)〞と言われていたという事です。
家業においても目立った事業はしなかったようで明治初期の大変革期をじっとたえた時代だったようです。
三代目音治は、明治24年の28歳になったときにあとを継いでいます。彼は頭脳明晰で算術を独学で学習した学者タイプの秀才肌の人だったようです。
そして、彼の時代に事業も拡大させ10室だった客室寮のほかに二階建ての12室の客室寮を増築(西寮と呼んでいた)し、川向こうにあった風呂場を川越しに引湯して湯舎を敷地内に作って大いに繁盛したようです。この西寮は平成17年に志戸平旅館を取り壊すまで「弥生館」という名称で残っていました。

三代目 音治(27才頃・明治23年頃)
しかし、明治39年に日露戦争後の不況の影響と本家の放漫経営により、本家が倒産の危機に陥りました。
音治はその明晰な頭脳で抜本的な再建案を提案しましたが、世間体のことや目先のことしか考えない本家当主の平太郎には、まだ若い分家の意見は聞いてもらえなかったのです。
ましてや、十一番目の末席の分家でもありました。その当時のことを父(大作)は祖父(逸郎)から「父から聞いた話し」としてその悔しい思いを何度も聞かされたということです。
結局、大沢温泉を売却し、全分家が借金を負担することでその窮地を脱したということです。
当家も、山林五町歩を手放し、温泉敷地を抵当に二十年返済の借金をして本家を助けたのでした。
〝四代目逸郎〞の巻

▲四代目 逸郎(40才代)
三代目音治(おとじ)は、本家の倒産による負債の肩代わりによる苦労とその逆境悲運の中で腰痛(脊髄病)を患い、のちの事を心配しつつ、明治43年に47歳の若さで亡くなりました。
四代目逸郎(いつろう)は明治17年に生まれていますが父音治には子供を養育する余裕がなかったために母キヨの実家で育てられました。
キヨは、本家平助(五代目)の次女キクが嫁いだ新渡戸家とゆかりの深い「鬼柳・鈴木家」で次女として生まれた人です。
つまり、逸郎にとってキクは久保田本家から行った祖母だったのです。
そのために、実家では大変かわいがられ学校も鬼柳小学校に入り、その後盛岡中学(現盛岡一高)にも通わせてもらったようです。
彼は頭が大きくて、走るときに頭の反動で勢いづかせている姿が曽祖父の新渡戸傳(つとう、稲造の祖父)に似ていると囃されたそうです。
中学校を卒業後、当時、志ある青年の間に「アメリカに渡って一旗上げよう!」という風潮があり彼もそれを企てたようですが、母から「家業が困窮しているのだから、志戸平を再建するように・・・。」と泣きながらに懇願されて、思いとどまって四代目を継ぐ決意をしたのでした。
〝新渡戸傳のこと〞の巻
四代目逸郎は、曽祖父の新渡戸傳(つとう)に似ているといわれたようです。
話しは脱線しますが、新渡戸傳は幕末の南部藩士で忠臣かつ「知恵袋」といわれた人物です。
南部藩が幕府から大量の木材を期限付きで江戸に搬入することを命ぜられ藩内は当惑し、困り果ててしまいます。
そこで、南部藩の知恵袋と言われた「傳」に一任します。
彼は宮古まで木材を搬送してそこから〝いかだ〞に組んで首尾よく江戸まで曳航し、やり遂げたのでした。
その功績による禄は辞退し三戸郡三本木原(現十和田市)の原野の開墾事業を申し出て、その後新渡戸家三代に亘って灌漑水路や掘削事業など都市整備に尽力し、十和田市発展の礎をつくった人物です。
もともと新渡戸家の祖先は、花巻の矢沢地区に在住していたということで、現在、花巻市と十和田市は 姉妹都市となり「花巻新渡戸記念館」が矢沢地区に建てられた所以になっているのです。
〝大正の観光ブーム〞の巻

洋風造りの大浴場(当時の写真はがき)
四代目逸郎は、明治43年、27歳のときに跡をついでいます。
大正2年に客室数20室を増築し当時としては珍しい洋風造りの大浴場も作りました。
そして、この年の3月に五代目となる「大作」が生まれました。
その命名のときに大作の祖母のキヨが「こんな大きな建築は二度と出来ないと思う。そんなときに生まれた子だから〝大作〞と付けよ。」ということで名づけられたということです。
また、副業として養蚕もやるなど若さの勢いで事業を拡大していきました。
そして、大正4年には、東北では始めての路面電車が一本杉まで、大正5年には二ツ堰まで開通し皇室一族の北白川宮様の宿泊先にも選ばれることとなります。
そこで、急遽、旅籠館(旅館)を増築することになり8室の旅館棟を作りました。これが、湯治宿から旅館へと業態を伸ばしていくきっかけとなります。
その後、路面電車は、大正12年に志戸平まで開通し当時の写真を見ると電柱に「しだて」と表示されていますのでその当時は、地元での呼称は「しだて」だったということです。
大正14年には鉛温泉まで開通し昭和43年に路線が廃止になるまで地元の生活交通としてはもとより(わたしは高校一年生までこの電車で通学しました。)温泉客を運ぶ重要な交通手段として繁栄しました。
また、これと呼応する形で、花巻の湯本地区に岩手県の財閥である金田一財閥が中心となって「岩手の軽井沢」を標榜して大正12年「花巻温泉」を創業しました。
この大正年間の花巻は、まさに観光ブームと温泉ブームで賑わった時期であったようです。
〝四代目逸郎と長男豊〞の巻1


昭和2年
前列左からテイ・キン・キソ
後列左から正四郎・大作・大八郎・逸郎
コウ・豊・大蔵
四代目逸郎は22歳のときに石鳥谷の菊池家から17歳の娘「キソ」を嫁にしました。五男三女を授かりますが、実は五代目大作は次男として生まれています。
しかし、長男は昭和8年に25歳で亡くなり、四男の大蔵も昭和12年に23歳の若さで病死してしまいました。次女のテイは、土沢(東和町)の佐々長醸造に嫁ぎ、三男の正四郎(しょうしろう)は碇ヶ関村(現・平川市)に温泉旅館「大丸ホテル(現・関の湯)」を開業し、五男の大八郎は当地で「志戸平商事」「みなみタクシー」を創業し、現在に至っています。
大正時代に入ると路面電車の開通とともに賑わいを見せるようになりましたが、本家の負債の返済に追われている志戸平温泉には資金的余裕はありませんでした。
やっとの思いで、大正13年に盛岡銀行の融資の斡旋により晴れて温泉源、敷地、建物を久保田家に取り戻すことができました。しかし、これが後々、苦難のもととなります。
長男の豊は、明治42年に生まれ、祖父音治から待ちかねた男孫として大変可愛がられました。(音治は翌年に死去)名前は「豊」でしたが周りからは「麿(まろ)」とか「まっちゃん」とか呼ばれていたようです。まさに〝お坊ちゃま〞扱いだったようです。
祖父ゆずりの頭脳明晰のところがあり小学校一年生の時には百人一首をすべて暗記し、お客様相手の「かるた大会」で大人を負かしてしまうほどの腕前だったようです。
優秀な成績で盛岡中学(現盛岡一高)に入学しますが生来、体が弱く中学五年生のときに肺炎を患い一ヶ月間入院します。これが早死にのきっかけだったと思います。
〝四代目逸郎と長男豊〞の巻2

豊22才当時(昭和5年頃)

大正6年全景
左西寮と炊事場、次き芽茅葺中西、
その奥北寮奥の小舎木小舎、
その右神社、その前別館右端南
長屋(創設より)芽茅葺母屋、
その奥土造蔵中央中寮、その奥中央浴場

大正13年頃(昭和22年迄)中央浴場の内部
豊は中学を卒業後、帰ってきて家業を手伝います。しかし、よく言えば〝多趣味多芸〞ですが悪く言えば、〝遊び人〞の気質があったようです。
音楽では、ハーモニカやバイオリンを弾いたり、スポーツでは、ピンポンやテニスに夢中になったり将棋や花札なども大好きだったようです。
また、女性にもモテたようで、しかも惚れやすい性分で何回か結婚騒ぎを起こしたようです。
(今で言えば、石田純一のような人かも・・・)俗に言うプレーボーイだったようです。
逸郎は、負債もまだまだある中で跡継ぎが豊では先行きがないと悩み志戸平温泉の売却譲渡も考えるほどでした。
志戸平温泉が借金の返済に追われている間に花巻温泉が大投資をして華々しく開業し多数のお客様を集めるようになります。
また、大沢温泉、鉛温泉も順次設備投資で拡張していき、電車も大正14年には鉛温泉まで開通したことで、お客様を奪われていくようになり次第に経営は厳しさを増すようになりました。
そのような中で、昭和2年から始まった「昭和の大恐慌」でさらなる苦境へと追いやられることになります。
全国各地で銀行の倒産が相次ぎ岩手県にもその余波が及ぶようになりついに盛岡銀行も倒産してしまいます。
盛岡銀行からの負債を抱えている志戸平(久保田家)が、その債務整理から競売されるということを心配した逸郎は心労のあまり病床に臥してしまいます。
ここで、長男豊の出番となりました。孤軍奮闘、百方画策した結果湯口村当局の同情で、負債を肩代わりしてくれることとなり、経営の危機を脱することが出来たのです。
しかし、虚弱体質だった豊は、奔走の疲れから肺炎を再発し昭和8年3月12日の大作の誕生日の日に亡くなります。
亡くなる日の朝「大ちゃん(大作の愛称)、今日はおまえの誕生日だけど、今日、俺は死ぬだろう。お前は俺の分も親孝行を頼む!!」と言ったそうです。
逸郎の悲嘆は大きく、出棺のときは慟哭して見送ったと言うことです。
しかし、後日「豊を亡くしたのは非常に悲しいけれども大作ならこの後をやっていけるだろう。親としては辛いけれども経営者としては、ほっとしている、複雑な気持ちだな・・・。」と語ったということです。
〝五代目大作〞の巻1

大正9年撮影
右より
豊(10歳)・大作(6歳)・キン(12歳)
大八郎(0歳)・テイ(8歳)
大蔵(2歳)・正四郎(4歳)
昭和8年3月12日、大作の二十歳の誕生日の日に長男豊が亡くなり、五代目として大作が跡を継ぐこととなります。
大作の少年期は、まさに「わんぱく小僧」そのものだったようです。〝ジョッパリわらす(強情なわらし)〞とも言われたようです。小学一年のとき、かくれんぼをして遊んでいたときのことです。祖母キヨがお客様と話しをしている前を横切ったことで注意をされた。学校では教練で失敗したら前の通りに戻ってやり直すことが決まりだったので、その通りにしたら祖母は激怒し、土蔵倉に放り込まれてしまった。
祖母にすれば、注意したのに再びワザとやったと思い込み怒った。
しかし、本人は悪いことをしたとは思っていない。夜になって許されても「キヨばあさんが来なければ、出ない!!」と夜中まで強情を張り通したという。
小学校の校長を定年退職した後、帳場の手伝いをしていた大作の叔父準一翁は「逸郎よ、大作を良く育てよ。ぐれて育ったら大悪党になるかもしれないが養育の当を得れば、大物になるだろう。」と語っていたということです。(大作の談)
本人はその話を誰から聞いたのかわかりませんが、その言葉をその後の人生の糧としてあるいは、潜在意識の中に刷り込まれ、彼が苦難や逆境に遭ったときのエネルギー源となったのかもしれません。
小学校を卒業後、兄の豊と同じ盛岡中学に難関を突破して入学します。わんぱく小僧としか思っていなかった祖母キヨも、このときだけは大いに褒めて喜んだということです。
盛岡では、兄と同じ下宿屋で一緒の生活をしました。しかし、中学二年生のとき(大正15年)の夏休み中に遊びすぎて体調を壊してしまいます。9月に入ってさらに悪化し「結核性肋膜炎」と診断され長期治療が必要となり一年間の休学を余儀なくされます。
これが大作の人生の大きな転機となっていきます。
〝五代目大作〞の巻2〜転機

大正9年撮影
右より
大作会長(盛岡中学の頃)
大正15年、大作が中学二年のときに患った「結核性肋膜炎」に、医者からは「助からないかもしれない。」と言われました。
まさに、九死に一生を得て翌年(昭和2年)の5月に退院し自宅療養(温泉療養)を二年ほど続けました。
それ以来、彼の人生では「一にも健康、二にも健康、三にも健康」が口癖で私の少年時代にも「勉強もスポーツも出来がよくなくてもいいから健康を第一にしなさい。」といわれたものです。(そのせいか、私は勉強もスポーツも中途半端な学生生活を送ってしまいました。)
この考えは終生変わらず、87歳で「急性心不全」で他界するまで「健康第一」で生き抜いた人生でした。
さて、昭和4年の春頃からは体調もよくなって来たため盛岡中学への復校を願い出ます。しかし、学校の規則として一年生からの復学しか認められないということでした。
同級生はすでに五年生となり弟の正四郎も同じ中学の三年生になっており同級生や弟までにも〝脱帽の礼〞をしなくてはならず、耐え難かったようです。
〝五代目大作〞の巻3〜転機2
昭和4年の秋、父、逸郎のいとこが水戸の高等学校に勤めている縁から県立水戸中学校付属夜間中学に三年生で二学期から入学できることとなった。久し振りに出来る勉学に深い喜びを感じたようです。
冬休みに帰郷したときは息子の元気な姿を見て、母キソは涙を流して喜んでくれたのでした。
翌年(昭和5年)には、私立茨城中学校の四年生に編入学し、通常の学生生活に戻ったのでした。
そのころのエピソードを酒を飲むとよく聞かされたものです。
たとえば、
「軍事教練放棄事件」〜
攻撃隊の中隊長だったときに「馬鹿馬鹿しいからやめよう!」と解散してしまい教官大尉から呆れられた事件。
「通信簿訂正事件」〜
テストで答案を見せてやった級友が〝甲〞で自分が〝丙〞だったことに憤慨し教師に直談判して〝甲〞に訂正させた事件。などなど・・・・。
「私は盛岡中学の友達と茨城中学の友達と二つ持っている。すごく得した学生時代だったと思う。」と言ったことがあります。
人生の逆境も考え方で幸福にも見えるし、不幸にも見えるということです。
〝五代目大作〞の巻4〜挫折
大作は三年間の闘病生活の後、水戸の中学で学業の遅れを取り戻し昭和7年3月に卒業を迎えます。
高等学校への進学を目指して猛勉強した結果、見事仙台の第二高等学校(現東北大学)に合格します。合格証書を手に、意気揚々と帰宅したのですが当時の志戸平温泉(久保田家)には資金的な余裕はなく入学を断念せざるを得ませんでした。
大作は、失望とともに大きな挫折感を抱くことになります。当時まだ、兄・豊が存命だったため満州へ渡ることも考えたようですが、父・逸郎から諌められて、それも断念します。
大作の少年期は挫折と失望の連続だったのでした。
その後、養鶏業で生計を立てようと鶏を飼い始めます。そして、昭和8年3月に豊が死去し五代目を継ぐことになるのです。
豊から「俺の分まで孝行を頼む。」と遺言され一念発起して家業の改革に取り組みます。
まず、売店の改革に取り組み仕入の見直しを行い原価率を良くし、商品の品揃えも酒類や食材・食品のみからお土産品の販売も始めます。
これが大成功し、大沢温泉からもわざわざ買い求めに来るほどでした。
これに気を良くし、旅館本体の経営改善に取り組もうと「三つの改革案」を逸郎に提案します。
しかし、父に「お前はまだ若い!未熟だ!」と一蹴されてしまいます。
〝五代目大作〞の巻5〜結婚

大作・カヨ結婚の記念写真
経営改革案を退けられた大作は「それならば・・・」と養鶏業を本格的にやろうと猛勉強をはじめます。専門書をむさぼり読み、不眠不休で働き、時には、鶏小屋に布団を持ち込んで寝泊りすることもありました。
そして、昭和10年ころには三千七百羽を超えるようになり東北でも一、二位の養鶏業者となります。本業である旅館よりも、ずうっと儲かるようになり父・逸郎から「なんでそんなに儲かる」と聞かれて理路整然とその理由を自慢げに語ったということです。
昭和11年6月に、大作に人生の転機がまた来ます。
いつものように鶏小屋で働いていると父から客間に来るように言われます。
作業着のまま(鶏糞等で汚れているまま)行ってみるとうら若い女性が座っていて紹介された。それが「お見合い」だったことを後から知った。それが盛岡からたずねて来た松本カヨ、当時17歳の娘であった。
話しはとんとん拍子にすすみ二度目に盛岡であっただけで結婚することとなります。
盛岡でのデートは公会堂多賀でのフルコースの料理と映画を一緒に見ただけだったようです。
そして、11月21日に結婚式をすることとなります。
しかし、一方で満州事変から昭和12年には支那事変へと戦争が拡大し志戸平温泉にも暗い影を落とすこととなります。
〝五代目大作〞の巻6〜戦争

昭和17年3月25日 大作出征記念
前列左より
姉 テイ・長女 紀子・母 キソ
大作・姉 キン・姪 恵子
後列左より
弟妻・妹 コウ・妻 カヨ
弟 正四郎・父 逸郎
昭和11年11月21日に五代目大作とカヨが結婚します。
なかなか子供が出来なかったのですが昭和15年6月に長女紀子が生まれます。
しかし、まもなく太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、昭和17年3月、ついに「召集令状」により旭川歩兵第二十六連隊に入隊することになります。その後、北支那(現在の山東省)に通信兵として出征して行きます。
幼子を残しての出征に「絶対生きて帰る」という強い決意を持って行きました。
中国の戦地を転戦していきましたが、生前、酒を飲んで戦争当時の話になると「俺はひとりの中国兵も殺さないできた。」とよく言っていました。
温泉の経営は、ほとんど営業停止状態で昭和19年には、社会奉仕として東京の学童疎開の児童を百人以上受け入れています。
その当時の業務物資の配給は鉛温泉が五、大沢温泉が三、志戸平温泉が一の比率で割り当てられていたそうです。
温泉の勢力(活力)としてはそれくらいの差があったということです。
終戦になって、昭和21年5月に復員して来ますが、父逸郎は、真っ正直で〝闇買い〞を嫌い自分では決して口にしなかったのでした。そのため、極度の栄養失調と神経衰弱を患い同年10月に他界してしまいます。
〝五代目大作〞の巻7〜逆境と試練
昭和21年5月復員後、まず自炊部の営業を再開します。
翌22年4月には老朽化した浴室を新しい浴室と娯楽室(ピンポン室)に改築しいよいよ本格的に旅館経営の再スタートをきります。
しかし、その矢先に二つの大きな逆境と試練に見舞われることになります。
一つ目が、マッカーサの戦後処理策の一つである「財産税」の課税です。
前に書いたように鉛温泉の五分の一くらいしかない志戸平温泉に花巻税務署管内(北上地区を含む)で八番目の財産税を課せられてしまったのです。
大作、いわく‥‥
「戦後のどさくさに乗じて志戸平を乗っ取る陰謀があった。」と後年語っています。
やっとの思いで買い戻した山林や土地そして鶏舎や娯楽室などを売却し、また湯口地区の地元の方々の「志戸平、がんばれ!!」の厚情と支援で何とか乗り切ることができたのでした。
二つ目は、大洪水による水害です。
昭和22年9月のアイオン・キャサリンの二つの台風により四度の水害に遭うのです。
湯樋(ゆとい)は流出し揚湯小屋はポンプごと跡形もなくなり、川端の浴場も泥水で半壊してしまいます。そして、一ヶ月間にわたり停電し、その間、休業を余儀なくされてしまいます。
財産税の重税と大水害という大ピンチを、地域住民の方々の援助協力と二人の弟(正四郎、大八郎)の献身的協力により乗り越えたのでした。
〝五代目大作〞の巻8〜再興

五代目 大作(62才・昭和50年)
財産税の重税と大水害のピンチを、何とか乗り越えた大作は、昭和24年に旅館部の営業を10室規模で再開します。
そして、この年に事業のさらなる飛躍を期するために、妻カヨと娘二人(長女紀子、次女容子)を連れて、鳴子温泉、秋保、作並温泉などの温泉地に家族旅行を兼ねた施設見学の旅行に出かけます。
それが刺激となり、昭和25年に資金がないまま「何とかなる」の楽観主義と「何とかする」のがんばり主義で、別館20室の増築工事を決意します。(平成元年まで営業)
そして、工事を着工して間もなく「花巻に県営温泉プールを!」という機運が水泳関係者を中心に沸き起こり、その候補として、大沢温泉の名前が浮上します。
それを聞いた大作は「いまでも大沢とは大きな差があるのに、この上プールまで造られては志戸平の再興はできなくなる。」という危機感から「志戸平が造る!!」と自らが名乗り出てしまいます。
その熱意が、水泳連盟の幹部に通じ「日本初の公認温泉プール」として工事を認められます。
しかし、資金のあてがある訳ではなく、別館建築の資金を流用しながらのまさに、〝乗るか、反るか〞の綱渡り的あるいは、博打的な設備投資でした。
が、ここでもまた、試練がきます。昭和25年8月3日、またもや大雨による水害です。(昭和36年に豊沢ダムが完成し、その後の水害がなくなる)
志戸平地区の住民の救援活動のおかげで、辛うじて引湯樋の流失は免れましたが、復旧工事にお金が掛かり、プール工事を続けることが出来なく中断せざるを得ませんでした。
大作は自分の運のなさを嘆き、泣き崩れるのでした。
〝五代目大作〞の巻9〜飛躍

昭和25年12月3日
プール開き歓迎(杉)門

橋爪、古橋広之進両氏を囲んで
正四郎・大作・大八郎

プール祭り(毎年5月5日)

新築別館浴室遠景
一旦は、運のなさを嘆いた大作も、もう一度気持ちを振るい立たせ万策交渉の結果、別館の工事は盛岡の材木店と内装工事店の協力で「後払い」でいいということで続行することが出来ました。
しかし、プール工事の資金は如何ともしがたく、行き詰ってしまいます。
が、ここで「救いの神」が現れます。
工事の中断を惜しんだ当時の湯口村長(斎藤光市氏)が(現在では考えられないことですが)役場の職員に連帯保証させて農協からの融資を斡旋してくれたのでした。
「地獄に仏」の心境だったとおもいます。
そして、8月末から工事が再開され昭和25年10月に完成します。
12月には「温泉プール」のこけら落としとして、当時、〝フジヤマのトビウオ〞として戦後の日本人を元気付けたオリンピック選手の古橋広之進氏(後に日本オリンピック委員会の会長に就任)が来泉し記念水泳をしてくれたのでした。
このことが当時の大変な話題となり新聞各紙が写真入で取り上げてくれたことで志戸平温泉の名前は岩手県内ばかりではなく全国的に知れ渡ることとなりました。
志戸平温泉が温泉地としての地位を確立したのは、このプールがきっかけであり、また、11月には別館も完成したことで、相乗効果で順調に行き始めるのでした。
大作の〝運〞が好転していく始まりでもありました。
まさに「本気で苦難に立ち向かっていけば、必ず、道は開けてくる。」ということを人生訓とした体験だったのでした。
〝六代目浩基の誕生〞の巻

大浴場「千人風呂」

開園当時の「遊楽園」トンネルを抜ける豆電車

ニュー志戸平ホテル(昭和41年)
昭和27年11月に長男浩基が生まれます。これを機に会社を株式会社組織にして、経営の近代化を目指しました。
その後、昭和30年に東北最大級の大浴場として「千人風呂」を完成。
昭和36年、岩手県で初の遊園地「遊楽園」を開園。昭和41年、近代的温泉ホテルとして「ニュー志戸平ホテル」を開業。など、話題性の高い施設をどんどん作って行き、志戸平温泉の知名度を高め発展して行きました。
昭和51年に長男浩基が入社します。昭和55年には、ニュー志戸平ホテルを増改築したことを機に、名称を「ホテル志戸平」に改称します。
昭和62年、齢(よわい)34才7ヶ月で浩基(私)が代表取締役社長に就任します。ここに第六代目の誕生となりました。平成2年には「志戸平温泉旅館」の増改築を機に、「ホテル志戸平」と一つの旅館としてリニューアルオープンし、今日の形が出来上がることとなります。
そして、平成8年6月「千人リゾート ホテル志戸平」として、大規模な増改築を行い、現在に至っています。
平成12年1月、五代目大作は、波瀾万丈の人生を87才の天寿を全うしての大往生を遂げました。
以上をもって、百八十年の歴史を久保田家の家系図に基づいて語ってきた志戸平温泉の物語を終了させていただきます。


六代目 久保田 浩基
志戸平温泉の歴史と久保田家の歴史を振り返って、改めて思うのは、先祖の血のにじむような努力や、必死に生きた御陰で今の自分があるということです。そんな先祖に誇りを持ちたいと思う。
また、地域の方々の協力や支援があり、家族の支えがあり、そしてその時々に働いてくれた従業員の協力や、取引業者の方々の応援があったからこそ、今の志戸平温泉があるということです。
ここに改めて、すべての方々に感謝申し上げたいと思います。
そして、二百周年の歴史をつくるのは、今いる若い社員の皆さんです。
合 掌
六代目 久保田 浩基
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