
志戸平温泉の由来は、今から1200年程前の延暦年間に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に「近くに霊泉がある」という観音様のお告げにより発見され、将兵の創傷を癒したと伝えられたことから始まります。
“志戸平”の地名は、アイヌ語の「シドタイ」から来たものと言われ、「川下の平らな憩いの場所」の意味ということです。
志戸平温泉はいつ頃から“温泉宿”を始めたのかは定かではありません。しかし、初代当主の善太郎という人が、1830年(天保元年)に久保田家として始めたことが郷土史に残っていますので、この時を志戸平温泉の創業の時としました。二代目も善太郎を名乗り明治を迎えました。
三代目音治(おとじ)の時代に本家の倒産の煽りを受けて苦難の中にありましたが、それでも少しずつ事業の拡大を図っていき、陸中(岩手)の「湯治宿」としての地位を作っていきました。
四代目逸郎が跡を継いだ大正年間は、花巻から当温泉まで、東北で初めての路面電車が開通し、温泉も大いに賑わいました。また、一方で盛岡の財閥が花巻湯本地区の観光開発に乗り出し「花巻温泉」が創業した時期でもあり、花巻は温泉観光ブームに沸いた時代でした。
志戸平温泉も湯治(自炊)宿としてだけではなく、旅館(旅篭)の建物も増築し、大正14年頃には、旅館12室、自炊72室の温泉地として、「陸中に志戸平あり」と言われるまでになります。しかし、昭和に入ってからの大不況(昭和恐慌)と戦争への足音が大きくなる中で、終戦までは停滞した時期でした。
五代目大作は、昭和21年に戦地から復員した後、まもなく跡を継ぐこととなります。しかし、昭和22年に台風による水害を4度も受けると同時に、終戦処理のための過酷な財産税と相続税の重税を課せられるなど、大変な苦難を強いられます。それを兄弟と地域の人たちの協力で乗り越えて、昭和23年に自炊部(湯治)の営業を再開し、翌年には旅館部も10室で営業を再開します。
昭和25年には日本で最初の“公認温泉プール”を完成させ全国的な話題にもなり、一躍「志戸平温泉」の知名度をあげることとなります。
昭和27年10月に志戸平観光株式会社(志戸平温泉株式会社の前身)を設立し、法人組織として温泉旅館業を本格的にスタートさせます。
その後、日本経済の復興と観光産業の増長に伴ない、施設の増改築を繰り返して志戸平温泉も大きく発展していきます。
昭和41年には、国際観光旅館として「ニュー志戸平ホテル(全室バス・トイレ付25室)」を開業し、観光旅館としての地位を確立することとなります。
また、旅館部(志戸平温泉旅館)も昭和52年に地下1階地上6階の鉄筋コンクリート建ての客室棟を増築し、観光旅館としての形を整えていきます。
